たかが世界の終わり

ドランの「たかが世界の終わり」を観ました。

 

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あらすじは、若くして成功した劇作家が家族に死を告げるために12年ぶりに帰ってくるというものです。

主人公のルイはとっても文化人な感じ。ナイーブでミステリアス。ルイの妹はかなり年が離れていて、ほとんど他人。そして、兄はルイと対照的で、現実に即して生きている感じ。でも、現実を満喫してるわけじゃなくて、フラストレーションもある。イライラしているし、ルイが帰ってきて落ち着かない。

 

で、ですね、一番心に残ったのは、家族の前でずっと微笑んでいたルイが一人になってタバコを吸うのをみながら、イラチでルイの気取った(別に普通なんだけど…)話し方を茶化し、挙句に怒鳴り散らしていた兄が「(誰もルイのことを理解できない)だから美しいんだ」と評する場面。

 

この映画を見て、お盆休みの悪夢とか、帰省の悪夢とかを思い出す人は多いと思うし、私も思い出した。

 

このほぼ唯一といっていいルイが中心にいないシーンに、ハッとしました。ひどく疲れる悪夢だけど、もしかしたら、悪夢だけじゃないのかもしれない、みたいな。

どんなに気取り屋だとか、お前の言葉は虚ろだとか、嘘だとか感情に任せて怒鳴り散らしていても、このお兄さんは弟の存在を認めているんだと。家族の中にカウントしているのかというと微妙だとしても、存在を認めている。

なんか、それにハッとしたというか。人って一面的なだけじゃないんだと思って…。なんか、苦しかったです。

家族の中で「らしさ」を演じるのも疲れるし、何故か自分が罵詈雑言を引き起こす異物になっている気もするし、家族なんてもうやめたいって気持ちになるのに、そこにあるのは憎悪じゃないというのが、とても苦しいです。

 

私も祖父母の家がとても苦手です。最近は随分適当にやり過ごせるようになりましたが、祖父母に対して話すこともないし、なんとなく文化圏も違う(別に文化的じゃないということはないんです。陶芸してるしね)。それに、たぶん、一番しんどかったのは、私が理想的な孫じゃないのに、その場に居られたことだとおもいます。

親ですら希薄な連絡レベルの私は、薄々孫と話したいと考えているのが分かっても、それに応じていい孫を演じられる度量もなく…。「へぇ!」とか「いいね!」とか興味を示すこともできない。さらに悪いことに中高時代は家族的なあのアホらしい思い出話を嫌悪していました。何度も話すやつ。「たかが世界の終わり」にもでてきます。

祖父母はこんな私でも別に怒鳴り散らしたりしませんでした。悲しいかな。

でも、その愛情に報いることはできない気がします。逆に私には愛がないのです…。どうして家族というだけで、愛情があるのだろう?不思議だし、感心します。私も血を分ければ分かるのかしら。

 

とまぁ、人のお盆休みの記憶を抉ってくるような、とても他人事とは思えない映画でした。他にも圧倒的な存在感のお母さんなど、良いところはたくさんあります。

 

面白かったです。